2013年 06月 03日
吉良街道 |
矢作古川を左右にして横須賀村へ着く。「人生劇場」にある
「岡崎から軽便鉄道が伸びて来て、、、」という情景は今も残されている。
仁吉の墓はどこでしょう?と聞くとちゃんと教えてくれるが、
車では入れません。とのことで、周囲を一周して諦めた。尾崎士郎の資料館がある、というので行ってみると、糟谷縫右衛門という「三河木綿の江戸送り総問屋」の屋敷内に書斎が移してあった。震災の頃、宇野千代女史と暮らしていた馬込の森陰の家ではなく、戦後建てた現代数寄屋だ。
東映の「人生劇場」のポスターなぞも飾ってあるのだが、小山角太郎さんを演じているのは鶴田浩二であって、高倉健ではないのだね。その高倉健が既に、カメラが回れば高倉健だが、カメラが止まるとタダのボケ老人、と言う時代なので、今の人は鶴田浩二と言ってもご存知あるめい。
千代女は良い男からタンパク質を吸い取って育つ、モダンガールの家元なのだが、長州玖珂の産だと言うのが面白かった。先年玖珂へ行って来たからである。老年に認めたらしい、史郎の思ひでの綴り字は小学生の如き金釘流だった。
物流に起因する事件は、江戸時代に舞台に乗せられたりして、庶民の娯楽になっているものが多い。
元禄11年(1698年)板東十郎兵衛死罪 「阿波の鳴門」
元禄14-15年(1701-02年)元禄赤穂事件 「忠臣蔵」
田沼意次は年貢を増やしても農村が疲弊するだけであるとして、新田開発もやったが、長崎での貿易赤字解消も目指した。それまでの長崎貿易は「舶来品」欲しさの赤字貿易だった様だ。明和4年(1767年)に側用人へ進み「城をやろう。」と言われたとき「御畏れ乍ら、遠州相良を。」と申し出たのは「伊達と組んで墨西哥銀」と言う思惑があったのではなかろうか。
長崎奉行の面倒なんか見たくないと、猟官運動をやって佐賀から出世城へ乗り込んで来た水野忠邦は、質素倹約を百姓に押し付ければ、と考えて「天保の改革」をやってみたが、うまく行かず、山形へ流されてしまった。
米は年貢に取られてしまうので、三州木綿とやって居たこの辺り、今は豊田佐吉の始めた工場で潤っている様だ。
アベクン、製造業の「デストピア化」をTPPで農水に拡げて後は消費増税、では焼け石に水なのだョ。1602年に出羽国に封ぜられた佐竹義宣が 「国の宝は山であり、山の衰えは国衰である」と言った通り、環境を守ることが21世紀の日本列島の宝になると吾人は考えるのだ。
伊勢青峯山正福寺にある海上安全の灯籠は、「天保の改革」で解散を命ぜられた檜垣回船仲間が、水野忠邦の失脚で、再び物資輸送の民間主導に成功した記念だそうで、天保八丁酉年五月(1837年6月)とあるそうだ。
吉良仁吉が出かけた「荒神山の喧嘩」も伊勢であり、次回のお散歩は青峯山も良いかもしれない。
by dehoudai
| 2013-06-03 12:20
| まちづくり
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