2013年 05月 18日
旭香美甘政和翁 |
旭香美甘政和翁
美甘光太郎
大正14年7月10日
非売品
美作在の叔母の家にご機嫌伺いに寄った。後で出雲へ行って来た由母に報告すると、喜んでいた様だ。
母の祖父、すなわち私の曾祖父は神主だったそうだ。黒住教の神主だった様に記憶していたが、記録を繙くと黒住教に学んで、後に大社教の神主となった由。明治の頃、千家尊福さんに重用されたとのこと。
著者が明治18年春、政和翁と起臥を共にしたおりに語られたには
美甘光太郎が「旭香美甘政和翁」を記した大正14年は、財政赤字を覆い隠すために、日本が満州に向かって膨張を始めた頃だろう。本書にもそうした「時代の要請」によって歯に物が挟まった様な感じがうかがえる。
「次代に史を編まず」という戒めに従って、大社教の明治人による「皇室尊奉」を今日から振り返ると、「お国のために死んだら、神様になって靖国神社に祀られる。」という国家神道とは違い、水田稲作を中心にした「エコシステムの尊重」ではなかろうか。
自分達のご都合で神様を作るという、萩の召魂社とは格が違うのである。旭香翁の言う「造化の御約束」を今の言葉にすれば「エコロジー」そのものだ。
自分達の都合の良い神様を作ってしまうというのは、先年事故を起こした「偽天照大神」と同じ発想だ。「近代日本」の統治機構は「近代文明」と心中しようとしているが、「脱近代日本」では「前近代日本」から学ぶものが多いと思う。
不忠者による、豊葦原瑞穂國を国際資本に売り飛ばすTPP調印を、冥界の旭香翁は何と嘆くことであろう。
旭香美甘政和翁遺言
美甘光太郎
大正14年7月10日
非売品
美作在の叔母の家にご機嫌伺いに寄った。後で出雲へ行って来た由母に報告すると、喜んでいた様だ。
母の祖父、すなわち私の曾祖父は神主だったそうだ。黒住教の神主だった様に記憶していたが、記録を繙くと黒住教に学んで、後に大社教の神主となった由。明治の頃、千家尊福さんに重用されたとのこと。
著者が明治18年春、政和翁と起臥を共にしたおりに語られたには
この時は露國が西伯利鐵道を起工し段々東方に延長し、吾国上下これを憂ひ人心恟々として、中々現時米國海軍擴張を開くの比ではなかった。直ぐにも歐亜の大國世界絶大の陸軍が、吾国の背後を衝くかの恐れをなした。父はこれに對して冷然且つ泰然たる態度で、神風は必要の時は何時でも吹く、あの鐵道も軍港も砲臺もちゃんと拵えて、結局我天皇陛下に献上するのである、此は造化の御約束であるから致方がない。世界統一は何れかの日には来るに相違ない、其時の大主宰は萬世一系の吾皇室をおいて外にあるべき筈のものではない。鐵道は網の如くに敷け、電線は蜘蛛の巣の如く張れ、朝に陛下が一令を下さるれば、夕に世界に行き渡り、大小の船舶海にみち、一麾の下に陸海軍が何れの地にも向ふことの出来るといふ、準備が整へば統一に段々近づくので、今は準備中で、準備々出来上がったら、吾天皇陛下に献上するの日が来る。これを統一すると云ふても、決して無名の師を起こしたり、暴力を用ゆる必要は無い、此等は却って天意に反する譯で、唯正義により仁道を行ないて居れば、造化の自然として此統一の日が来るのである。とのことだ。明治14年に「幽顕一如」を掲げた「出雲派」は「伊勢派」に破れ、「お国のために死んだら、神様になって靖国神社に祀られる。」という国家神道の道筋が作られていった時代だ。ところが「出雲派」は因幡白兎から始まるだけに
決して無名の師を起こしたり、暴力を用ゆる必要は無い、と言う通り、19世紀欧州の絶対王政に範を借りた国家神道とは、少し違う様な気がする。
美甘光太郎が「旭香美甘政和翁」を記した大正14年は、財政赤字を覆い隠すために、日本が満州に向かって膨張を始めた頃だろう。本書にもそうした「時代の要請」によって歯に物が挟まった様な感じがうかがえる。
「次代に史を編まず」という戒めに従って、大社教の明治人による「皇室尊奉」を今日から振り返ると、「お国のために死んだら、神様になって靖国神社に祀られる。」という国家神道とは違い、水田稲作を中心にした「エコシステムの尊重」ではなかろうか。
自分達のご都合で神様を作るという、萩の召魂社とは格が違うのである。旭香翁の言う「造化の御約束」を今の言葉にすれば「エコロジー」そのものだ。
自分達の都合の良い神様を作ってしまうというのは、先年事故を起こした「偽天照大神」と同じ発想だ。「近代日本」の統治機構は「近代文明」と心中しようとしているが、「脱近代日本」では「前近代日本」から学ぶものが多いと思う。
不忠者による、豊葦原瑞穂國を国際資本に売り飛ばすTPP調印を、冥界の旭香翁は何と嘆くことであろう。
旭香美甘政和翁遺言
by dehoudai
| 2013-05-18 15:12
| ほん
|
Comments(2)
昨日は、私のブログへ「コメント」を寄せて頂き有難う御座います。私のブログでお読みいただいたことかと思いますが、私の故郷は岡山県備前市日生町です。
私の曽祖父の遺品を整理していた中に、美甘政和翁より曽祖父あてに届いている封書が何通かあります。内容的には政和翁の娘(?)『きぬ』さんのことについての相談事です。『きぬ』さんは「日生」にある春日神社宮司・『那須家』へ嫁がれていたのでしょう。ところが、どの様な理由か存じませんが、『那須家』から離縁されたことについての内容を認めた手紙です。
政和翁と曾祖父がどの様なことから「知る人同士」になったのかも詳細は不明です。ただ、明治末期に岡山市内にある出雲大社分院(大社教)宮司・花房理八郎より分院建替えの費用についての募金要請を受けて、日生町で30円を集めて花房氏に託した一文があります。その関係で、曾祖父は政和翁と知り合ったのかも知れません。(その1)
私の曽祖父の遺品を整理していた中に、美甘政和翁より曽祖父あてに届いている封書が何通かあります。内容的には政和翁の娘(?)『きぬ』さんのことについての相談事です。『きぬ』さんは「日生」にある春日神社宮司・『那須家』へ嫁がれていたのでしょう。ところが、どの様な理由か存じませんが、『那須家』から離縁されたことについての内容を認めた手紙です。
政和翁と曾祖父がどの様なことから「知る人同士」になったのかも詳細は不明です。ただ、明治末期に岡山市内にある出雲大社分院(大社教)宮司・花房理八郎より分院建替えの費用についての募金要請を受けて、日生町で30円を集めて花房氏に託した一文があります。その関係で、曾祖父は政和翁と知り合ったのかも知れません。(その1)
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dehoudai at 2016-01-15 07:59
どうもです。
私にとっては光太郎から上の人々は「ご先祖さま」という感じで、詳しいことはわかりません。
そうした点で本書は貴重です。
叔母が美作市に一人で住んでいますので、出雲の遷宮見物の折に尋ねてみました。
95歳で目は明るさ程度しか見えません。
昔のことを聞くと、はっきり覚えていることと、忘れたことがまだらになっています。
昔は子供を貰ったりするのがよくあることだったそうです。
本人も別の旧家に貰われて、家の守りという一生でした。
私にとっては光太郎から上の人々は「ご先祖さま」という感じで、詳しいことはわかりません。
そうした点で本書は貴重です。
叔母が美作市に一人で住んでいますので、出雲の遷宮見物の折に尋ねてみました。
95歳で目は明るさ程度しか見えません。
昔のことを聞くと、はっきり覚えていることと、忘れたことがまだらになっています。
昔は子供を貰ったりするのがよくあることだったそうです。
本人も別の旧家に貰われて、家の守りという一生でした。