2013年 04月 09日
背中 |
和風住宅といい、洋風住宅と言うが、何が和風で何が洋風かはどうも判然としない。「式」がないのが今の日本だ。住宅で「式」の残っているのは「和式便器」「洋式便器」ぐらいだろう。
ところがこれが「和式便所」となると、どうもうやむやだ。文久2年と言うから、森の石松が浜松市小松村で浜松市都田村の吉兵衛輩に殺された年だが、幕府は修好通商条約による開港開市延期交渉のために、遣欧使節を送っている。
一行が巴里滞在中のある日、小人が正使竹内下野守様の部屋を開けると、こちらへ向いた雪隠の戸が開け放たれており、中からこちら向きに、おまるの上に蹲踞の姿勢を取った殿様が、鬼瓦の様な顔で睨んだたそうだ。
殿様ははたして入口の方をむいて用を便ずるのが「洋式」と心得ていたのかどうかは分からない。
図は津波で流されてしまったが、東北のある町にあった、仙台藩の藏役を務める家柄のお宅の外便所だ。和風便器なのだが入口の方をむいて、用をたす仕掛けになっている。後世の付会かもしれないが、軒下には茶室で見る、刀掛けの用なものも付いていた。
新撰組などにも記録が残る通り、武士は背中に傷を負ったら、たとえ命を取り止めても切腹だったそうだ。してみるとこの便所は武士の雪隠として理に適っている。
帝国軍隊の便所は武士の便所であったか、敵に背中を見せる様な便所であったか、興味のあるところだ。江戸の裏長屋ではどうだったのだろう。
ところがこれが「和式便所」となると、どうもうやむやだ。文久2年と言うから、森の石松が浜松市小松村で浜松市都田村の吉兵衛輩に殺された年だが、幕府は修好通商条約による開港開市延期交渉のために、遣欧使節を送っている。
一行が巴里滞在中のある日、小人が正使竹内下野守様の部屋を開けると、こちらへ向いた雪隠の戸が開け放たれており、中からこちら向きに、おまるの上に蹲踞の姿勢を取った殿様が、鬼瓦の様な顔で睨んだたそうだ。
殿様ははたして入口の方をむいて用を便ずるのが「洋式」と心得ていたのかどうかは分からない。
図は津波で流されてしまったが、東北のある町にあった、仙台藩の藏役を務める家柄のお宅の外便所だ。和風便器なのだが入口の方をむいて、用をたす仕掛けになっている。後世の付会かもしれないが、軒下には茶室で見る、刀掛けの用なものも付いていた。
新撰組などにも記録が残る通り、武士は背中に傷を負ったら、たとえ命を取り止めても切腹だったそうだ。してみるとこの便所は武士の雪隠として理に適っている。
帝国軍隊の便所は武士の便所であったか、敵に背中を見せる様な便所であったか、興味のあるところだ。江戸の裏長屋ではどうだったのだろう。
by dehoudai
| 2013-04-09 16:42
| まちづくり
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