2013年 02月 17日
センソウダッ |
67年前のセンソウダッ。
大正元年創業の鉄道院浜松工場は、隣地が現在「伊場遺跡」と呼ばれる「東海道曳馬駅」であり、平安時代から国の出先機関の敷地だった様だ。
大正元年に鉄道院新橋工場・大井工場から浜松工場に送り込まれた160余名のべらんめい諸君は全員が倶利迦羅紋紋だったそうだ。こんな連中が金釦の官員さんと上手く行くわけはない。ことあるたびに「てやんでぃ、べらぼうめ」と工場を飛び出して、近所の織屋などをからかううちに、浜松の近代的力織機産業が発達した。
すでに慶喜公駿府謹慎の折、駿遠三へ落ち延びて来た直参旗本諸君にも、べらんめい輩諸君が付き従っていたに違いない。
百姓女にまたがって奏者番を棒に振ると言う、前代未聞の離れ業を演じた浜松藩主井上正甫公の世子正春公は、水野忠邦の失脚で浜松に封ぜられたが、前任地が館林であり、上州木綿の技術は遠州にもたらされていた。
大正12年9月1日午前11時58分には、川越・館林など関東の起業地が壊滅、翌年同月同日には「工場法」施行で「竹田の子守唄」式若年労働で成り立っていた、関西の機業地も壊滅、お上の言う事を聞いて絹織物に賭けていた産地も、1935年のナイロン発売で壊滅、その間に遠州綿業は朝鮮・満州・南洋へ雄飛、ジャワ更紗も遠州産の織機で織られる様になった。浜松はお上の言うことを聞かないから食って来れたのだ。
中日新聞
おなべとおかま
大正元年創業の鉄道院浜松工場は、隣地が現在「伊場遺跡」と呼ばれる「東海道曳馬駅」であり、平安時代から国の出先機関の敷地だった様だ。
大正元年に鉄道院新橋工場・大井工場から浜松工場に送り込まれた160余名のべらんめい諸君は全員が倶利迦羅紋紋だったそうだ。こんな連中が金釦の官員さんと上手く行くわけはない。ことあるたびに「てやんでぃ、べらぼうめ」と工場を飛び出して、近所の織屋などをからかううちに、浜松の近代的力織機産業が発達した。
すでに慶喜公駿府謹慎の折、駿遠三へ落ち延びて来た直参旗本諸君にも、べらんめい輩諸君が付き従っていたに違いない。
百姓女にまたがって奏者番を棒に振ると言う、前代未聞の離れ業を演じた浜松藩主井上正甫公の世子正春公は、水野忠邦の失脚で浜松に封ぜられたが、前任地が館林であり、上州木綿の技術は遠州にもたらされていた。
大正12年9月1日午前11時58分には、川越・館林など関東の起業地が壊滅、翌年同月同日には「工場法」施行で「竹田の子守唄」式若年労働で成り立っていた、関西の機業地も壊滅、お上の言う事を聞いて絹織物に賭けていた産地も、1935年のナイロン発売で壊滅、その間に遠州綿業は朝鮮・満州・南洋へ雄飛、ジャワ更紗も遠州産の織機で織られる様になった。浜松はお上の言うことを聞かないから食って来れたのだ。
中日新聞
おなべとおかま
by dehoudai
| 2013-02-17 07:45
| まちづくり
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