2013年 02月 11日
St.John's |
ことの始まりは、大正9年の夏、仙台青葉女学院院長アンナ・ランソン先生が磯山にあった小塚病院の先生に招待されて、静養に来たことから始まる。ランソン先生は磯山の風光がいたくお気に召し、それから毎年夏には避暑に来る様になった。
夏の農繁期で大人は大忙し、幼い子供が赤ん坊を背負って子守りをやる、という風景はその頃の日本のどこでも見られた光景だろう。教育者であるランソン先生はこれに心を痛め「浜辺で子供と遊ぶ」様になった。始めは仙台から来た外国人、ということで恐れをなしていたであろう村人も、やがて心を許す様になり、子供の面倒を見ていただいて、ということでおつきあいが始まる。
子供達はランソン先生から色々な「お話」を聞き、それを親達に伝える。そのうちに親達の中にもランソン先生の「エス様のお話」を聞いてみようというものが現れる。
ランソン先生はそれだけではなく、村人に呼びかけ、それまで石の上に板を渡しただけで、大水の度に流されて難儀をしていた橋を、本式の橋に架け替えようという、小塚先生の手助けをして、橋は立派に出来上がった。
村人にもキリスト教に入信するものが増え、教会堂がほしいということになって、昭和11年に現在の建物が出来たのだそうだ。
国家神道の方は明治の御一新に際し、岩倉具視卿などが欧米の有様を見て、王権をローマ法王から授かるという、18世紀の絶対王政の真似をして始めたもので、江戸時代の日本人にすれば面妖なものだっただろう。
それが関東大震災で国家中枢部がPTSDに陥ると、とたんに「神国日本」というわけで「日本精神」が強要される。内実はと言うと、第一次大戦のバブルでボケた国家中枢部が「一等国」というわけで予算を軍備に注ぎ込み、収拾がつかなくなって国家財政が破綻に向かっていたのが原因だ。
アベクンが提唱する「アベノミックス」がこれと全く同じ道を辿っている。日本の産業近代化が終わりを告げ、産業構造の根底的な組み替え無しには、生き残れないのだが、重機・電力と言った国策企業は、相も変わらずの「近代産業」から脱却する能力が無い。
何故こんなことになったかというに、我国には民主主義国家の構成要素として必要不可欠な、官僚の暴走に対する歯止めが無いのだ。高橋是清は軍部に暗殺されたが、白川方明は匙を投げた格好だ。
昭和の初めには二宮尊徳がもてはやされたが、あれも「税金は全て零戦と戦艦大和に使うから、庶民は自活せよ。」とやったわけで、軍需産業が自給自足で国にご奉仕したわけではない。
新聞・テレビの発行許認可権が、議会ではなく官僚に属するというのも、官僚の暴走に対する歯止が無い証左だ。官僚の暴走をチェックする筈の新聞・テレビは、官僚の言いなりとなって「自分で考えない国民」を育てるのに汲々としている。
これに加えて、かっては「国民皆兵」ということで「良く言う事を聞くヘイタイサン」を量産する為の義務教育であったものが、現在では「自分で考えない国民」を育てることを目的としてしまっているので、この国が「近代産業」から脱却する望みはますます細くなり行く。
福島県相馬郡旧福田村は、明治時代に目黒重真はじめ自由民権運動の志士を輩出ところだ。昭和11年竣工の「セントジョン・オン・ザ・シーサイドヒル」もそうした福田の気概が、困難な時代に結実したものと思われる。日本における農村伝道の成功例ととしての事績は、信心の人々にお任せして、困難な時代に官僚の暴走に抵抗した、自由民権の聖堂という存在を、伝えなければならないと思うのだ。
by dehoudai
| 2013-02-11 08:49
| まちづくり
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