2013年 01月 22日
まちづくり忌 |
私にとって東北大震災も、この日から始まっている。第一の兆候は2009年10月18日の加藤和彦君の自殺だった。
都会では自殺する年寄りが増えている傘が無いから何だってんだこらという訳で、陽水君に尻ぬぐいをしてもらいたいところである。1968年夏の新宿駅西口地下広場の「大人はウソつきだ」ごっこは、秋になり、人数が減ったところで機動隊に排除されてしまった。あの時の
だけども問題は今日の雨、傘が無い
こちらは警視庁淀橋警察署広報車です。というのが嘘であったことは、現在新宿駅西口地下広場が「広場」と表示されていることでも解る。
ここは広場ではありません
歌で世の中が変わるかもしれない、という暢気な学生の思いは、危険極まりないものであって、国家統治機構は急遽「若者は惚れたはれたとやっててください。」という訳で「ニューミュジック」なるものをでっち上げ、吉田拓郎君、井上陽水君、南こうせつ君などが「同棲時代」を作り上げる手伝いをさせられた。
私はと言えば雄さんのお誘いで、国立歩道橋反対闘争のビラの挿絵などを描かせてもらい「充実したセイシュン」を送っていた。
2010年の正月には高校同級の一夫君が「えつろーが同窓会に来んかった。」と言って騒ぎ出した。連絡がつかないそうで、心配のあまりアパートを尋ねてみると、冬だというのに窓が開け放たれていて、バイクはそのまま、鍵のかかっていないドアには、内側から防犯チェーンが掛けられていて、そこはかとなく「焼き魚の匂い」がしたそうだ。
かくして一夫君は第一発見者になってしまう。妹さんに連絡して警察を呼び、突入してもらうと死後2ヶ月程、ということだったが、私は加藤和彦君の自殺のニュースに背中を押されての脳出血だと考えている。
昭君にCDを借りて、引っかかった加藤和彦君の歌は「ふしぎな日」だった。どうも天才は20歳頃既に日本の未来を見取っていた様だ。
しばらく前から「マンション反対」のお手伝いをして、ついに行政訴訟のお手伝いまで付合い「統治機構のパンツの穴」を垣間みてしまったのだった。こちらは昨年の秋にも温泉へご招待を頂いて「工業都市浜松」を作り上げた先輩諸氏のお話を伺い、今も充実している。
学生時代に「朴正煕軍事独裁見物」に出かけたおりに「見所」を教えていただいた康炳基先生が、しばらく前に無くなられたことを知ったのもこの頃だった。
秋には東洋大学内田研究室の卒業生から、朝霞校舎でやっている「第三土曜の会で何かやれ。」とご招待を受けた。専門外のお気楽さで「住宅敷地から見た近代」と称して漫談をやったのだが、雄さんからは秋霜烈日の如き指導を頂いた。
そのとき印象に残ったのは、雄さんから受けた「焦燥感」の様なものだった。研究会でイミョンバク氏による韓国の「半島改造」に言及すると、雄さんが「あれはどうしようもないね。」と吐き捨てる様に言ったのが印象に残っている。まちづくりから見ればこの国も「亡国の道」を歩んでいるのではあるまいか、というのが当日頭をよぎったことだった。
2011年1月26日の雄さん逝去の報は卒業生の誰かから、連絡をいただいた。葬儀はいかにも「葬儀らしい葬儀」であって、「私はここにはいません」という空しい思いを抱いて帰って来た。
2ヶ月足らず後に起こった東北大震災は、図書館へ本を返しに行って、歯医者の椅子に座る間に発生した。私はNielYoungの"Le Noise"なぞ聞きながら、どすどす歩いていたので、長波長の揺れには気が付かず、看護婦が騒ぐので知ったのだった。頭をよぎったのは雄さんの逝去と加藤和彦君の「ふしぎな日」だった。
4月5日には15年程前からまちづくりのお手伝いをして来た町へ、御見舞いに行った。「第二次戊辰戦争ですね。」と口を滑らせたら、温厚で怒ったところを見た覚えの無かった都市計画課長が、いきなりブチ切れてしまい、傷の深さを思い知らされた。
被災者が怒りきれないのは仙台近郊の住宅地も、山奥の海近く、成人家族数の車が無ければ生計が成り立たない住宅地も、一律に330㎡で復興しろ、日照に至っては「一階には陽が差さない」という日照権裁判つぶしの日影条項で、東京では考えられない文化的生活を、地方で営む人々には考え及ばない仕法を押し付けるという悪平等だ。2012年3月まで官軍の兵卒をやった後で脱藩浪士となり、ひと夏「自由民権運動」の勉強をさせてもらった。
その後の震災と原発からの復興の歩みを振り返ると、やはりこの国は「亡国の道」を歩んでいると思われる。専門学校で建築士の授業をしていても「資格さえ取れば、食って行ける。」と信じて疑わない学生を見るにつけ、やはりこの国は「亡国の道」を歩んでいると思われる。
内田雄造さんから教えていただいた「まちづくり」は既になく、あるものは「まちづくり事業」やら「まちづくり制度」のみだ。
追悼文集若干部が残っているそうだ。「まちづくり」を「制度」「事業」の外から見ることの出来る貴重な資料だ。希望者は急げ。
ゆっくりとラジカルに
内田雄造追悼文集
2012.2.11
内田雄造追悼文集世話人会
168-0063
東京と杉並区和泉3−34−23
モモの部屋 内田方
mailto: uzo_memorial@nethome.ne.jp
130130
130117他者の尊重
111230
去る人
110127
衣と鉢
110126
急逝
100122
劇終
100115
御卒業
091025
帰って来ないヨッパライ
091022
作品?
091019
傘が無い
by dehoudai
| 2013-01-22 15:00
| まちづくり
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