2013年 01月 07日
会津の馬 |
しかしこうしたテーマを追って行くと、原発立地は戊辰戦争の続きだということになって、国民統合の象徴たるNHKの大河ドラマにふさわしくない。「鉄砲女」というのがいかにも苦肉の作だ。
馬も沢山出て来る。テレビドラマに出て来る大方の馬は、相馬周辺の馬だった。常磐線沿線に馬場を囲って、電車が通っても驚かない様に育てる人もいた。図は震災後の相馬神社の神馬であるが、馬方も何だかお顔の輪郭が西田敏行に似ておいでだ。
その相馬でも津波の被害を被って「復興顔で10年は仕事をしたふりが出来そう。」というお上に怒りきれない様だが、南相馬の太田神社・小高神社に至っては未だに立ち入り禁止だ。
会津にも馬は居ただろうが、3.14、3.15の人災で、相馬の馬が会津にも多数緊急避難しているだろう。相馬の馬方衆は将門の乱以来千年以上に渡って、何時でも「馬子が衣装を正す」準備を怠らなかった。
天慶2(939)年「平将門が関八州を平らげた。」との報が京に達すると、都の官辺は大恐慌を来してしまった。貞観11(869)年の地震と津波によって、壊滅的な被害を被った常陸・陸奥は、その後70年に渡って放ったらかしだった。古来戦争のヘタな日本人は「馬子にも衣装」「馬子風情」と、ロジスティックスを蔑み、前面火力が戦争だと思い込んでいたので「馬子が衣装を正した」時の恐ろしさに震え上がったのだ。
平将門は「馬子の親方」みたいに思われがちだが、相馬家が祀って来たのが妙見社である通り、元々は利根川の河川舟運が基盤であったらしい。将門にとっては「戦争すなわちロジスティックス」だったのだろう。
安倍君だの金正恩君だのと言った陸上権力が、ロジスティックスを蔑み、前面火力を戦争と取り違えているのは、現代も変わらない。第二次世界大戦下のニューギニア戦線の戦死者20万人のうち、戦闘中の損耗は3%、残りは戦病死と称する餓死だそうだ。現今の北朝鮮も似た様なものだろう。
元々「馬子風情」を蔑んで来たオサムライサン達は、江戸時代に参勤交代という、家康の外様大名財政疲弊策に嵌って「行軍とは夜毎夜毎に土地の美味いもんを食いながら歩くこと。」というのが染み付いてしまった。まあ東海道筋などそれで潤っていた。ところが西国のオサムライサン達は、近代戦争でも同じ事を続けたのだった。財政そっちのけで「核を持っていないと発言権が圧倒的にない。」などと言うボケ老人が、ついこの前まで大きな顔をしていた。
by dehoudai
| 2013-01-07 11:43
| まちづくり
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