2012年 10月 11日
木曾道中記 |
饗庭篁村
東京朝日新聞連載・明治23年/明治文学全集・筑摩書房・昭和49年
明治廿三(1890)年四月の廿六日饗庭篁村先生は太華山人・幸田露伴・梅花道人の三人と同道、先づ木曾街道を西京さして旅に出る。
今日の我々は文明開化更に進んで電脳手机なるものあり、掌中で根岸党の難儀した碓氷峠は愚か、諏訪の神長館を拝した序でに杖突坂を攀じ上り、高遠に絵島の押込屋敷を見て、遠山谷から遠州へ降りることも出来る。木曾の道中京大坂の繁華のみならず、天竺欧米を空から見れば役小角もかくやと思われるである。
沿道の風土人情中々に面白けれどじっくり讀まう。当時の新聞連載には句読点が無いのだネ。120年前の物故著作権も無からうから第一回分をば此処に写しておかう。これも機械仕掛けで筆写出来るのだ。機械には間違いもあり「歸」をちゃんと「帰」と勝手に略してしまったりするが、やはり本字の方が趣はある。
第 一 回
鐵道の進歩は非常の速力を以て鐵軌を延長し道路の修繕は懸官の功名心
の為に山を削り谷を埋む今ま三四年せば巻烟草一本吸ひ盡さぬ間に蝦夷
長崎へも到りヱヘンといふ響きのうちに奈良大和へも遊ぶべし況んや手
近の温泉揚など樋をかけて東京へ引くは今の間なるべし昔の人が須磨明
石の月も拐にかけてふり賣にやせんと冷評せしは實地となること日を待
たじ故に地方漫遊のまた名所古跡一覧のと云ふ人は少し出立を我慢して
居ながら伊勢の大神宮へ賽銭あぐる便利を待つたが宜さうなものといふ
人もあれど篁村一種の癖ありて「容易に得る樂みは其の分量薄し」とい
ふヘチ理屈を付け旅も少しは草臥て辛い事の有るのが興多しあまり往来
の便を極めぬうち日本中を漫遊し都府を懸隔だちたる地の風俗を交ぜ混
ぜにならぬうちに見聞し山河も形を改ため勝手の違はぬうち観て置きて
歴史など讀む参考ともしまた古時旅行のたやすからざりし有様の一斑を
も窺ひ交通の不便はいかほどなりしかを知らんと願ふこと多時なりしが
暇。金。連の三折合ずそれがため志しばかりで左のみ長旅はせず檜圖の
上へ涎を垂して日を送りしが今度其の三ツ備はりたればいでや時を失ふ
べからず先づ木曾名所を探り西京大坂を回り有馬の温泉より紳戸へ出て
須磨明石を眺め紀州へ入りて高野山へ上り和歌の浦にて一首詠み熊野本
宮の湯に入りてもとの小栗と本復しと拍子にかゝれば機関の云立めけど
少しは古物類も覗く為に奈良へ廻りて古寺古社に詣で名張越をして伊勢
地に入り大廟にぬかづき二見ケ浦で日の出を拝み此所お目とまれば鐵道
にて東海道を帰るの像算なるたけ歩いてといふ注文三十日の日づもりで
行くか帰るか分からねど太華山人。幸田露伴。梅花道人の三人が揃って
行かうといふを幸ひ四人男出立を定め維時明治廿三年四月の廿六日に本
願の幾分を果すはじめの日と先づ木曾街道を西京さして上る間の記を平
つたく木曾道中記とはなづけぬこれは此行四人とも別々に紀行を書き幸
田露伴子は損得の健筆を大阪朝日新聞牡へ出して「乗興記」と名づけ梅
花道人は「をかしき」といふを讀賣新聞へ掲げ大華山人は「四月の楼」
と題して沿道の風土人情を細に覗察して東京公論へ載するにつきまぎれ
ぬ為にしたるなり此の旅行の相談まとまるやあかかも娘の子が芝居見物
の前の晩の如く何事も手につかず假初にも三十日のことなればやりかけ
たる博覧曾の評も歸ってからまた見直すとした處で四五日分は書き溜て
ザツト片を付けねばならず彼是の取まぎれに何處へも暇乞ひには出ず廿
五日出社の戻りに須藤南翠氏に出會ぬ偖羨やましき事よ我も来年は京阪
漫遊と思ひ立ぬせめても心床しに汝の行を送らん特に木曾とありては玉
味噌と蕎麦のみならん京味を忘れぬ為め通り三丁目の嶋村にて汲まんと
和田鷹城子と共に勤められ南翠氏が淡路もどきに馬琴そっくりの送りの
詞に久しく飲まぬ酔を盡し歸りがけに幸堂氏にまた止められ泥の如くな
りて家に戻り明日は朝の五時に總勢此に曾合すれば其の用意せよと云ふ
だけが確にて夢は早くも名所檜圖の中に跳り人ぬ
第 二 回
博覧會開設につき地方の人士雲の如くに東京に簇集きたる之に就て成人
説をなして米價騰貴の原因として其の日々費す所の石敷を擧げたるがよ
し夫までにあらずとも地方は輕く東京は重き不平均は生じたるならん我
々四人反対に東京より地方へ出て釣合をよくせんと四月廿六日の朝上野
の山を横ぎりて六時發横川行の滊車に来らんと急ぎしに冗口といふ魔が
さして停車場へ着く此時おそく彼時迅く滊笛二馨上野の森に烟を残して
滊車はつれなく出にけり此が風流だ此の失策が妙だと自ら慰むるは朝寐
せし一入にて風流ごかしに和められ滊車に乘おくれるが何が風流ぞと怒
ったところで可笑くもなければ我も苦笑ひして此方を見れば雑踏の中を
瓢然として行く後ろつき菊五郎に似たる通仕立の翁あり誰ぞと見れば幸
堂得知氏なり偖は我々の行を送らんとして此に来て逢はぬに本意なく歸
るならん送る人を却って我々が送るも新しからずやと詞はかけず後につ
いて幸堂氏の家まで到り此に新たに這別會を開きぬ我三人に萬の失策皆
な酒より生ず旅中は特につゝしむべしと一句を示す
一徳利あとは蛙の馨に寐よ
また新らしく瀧澤鎭彦幸堂得知の両氏に燈られ九時の滊車に乘り横川ま
では何事もなく午後一時三十分に着せしが是からが英雄競此碓氷嶺が
歩く邪魔にならば小脇に抱へて何處ぞ空地へ置てやらうと下駄揃にて歩
み出せしが始めのうちこそ小石を蹴散し洒落散したれ坂下驛を過るころ
より我輩はしばらく措て同行三人の鼻の穴次第に擴がり吐く息角立ち洒
落も追々苦しくなり最うどの位来たらうとの弱音梅花道人序開きをなし
ぬ横川に滊車を下りて直に碓氷の馬車鐵道に来れば一人前四十錆にて五
時頃までには佐井洋へ着きまた直ちに信越の鐵道に来れば追分より先の
宿小田井(停車場は御代田といふ)まで行くべきなれど其處が四天王
とも云るゝ豪傑鐵道馬車より歩いて早く着いて見せんとしかも舊道の峠
を上りかけしが梅花道人兎角に行なづむ様子に力餅の茶店に風を入れ此
にて下駄を捨てゝ道人と露伴子は草鞋となりしが我と太華山人は此の下
駄は我々の池月摺墨なり木曾の山々を踏み凹ませて京三條の大橋を踏轟
かせて見せんものと二人を見て麓より吹上る風より冷かに笑ひつゝ先ん
じて上る上りて頂上に近くなれば気候は大に東京とは變りて山風寒し木
の間がくれに山櫻の咲出たる千蔭翁が歌の「夏山のしげみがおくのしづ
けさに心の散らぬ花もありけり」とあるも思ひ出られて嬉しく頻りに景
色を褒め行くうち山人汗を雫と流して大草臥となれば露伴子は此ぞと旅
通を顕して飛ぶが如くに上る此に至って不思議にも始め弱りし梅花道人
ムクゝと強くなり山も震ふばかり力馨を出しサア僕が君の荷を持たう
しっかりして上り玉へと矢庭に山人の荷物と自分の荷を合せて引かつぎ
エイゝ馨に上りしは目ざましきまで感心なり拙者は中弱りの気味にて
少し足は重けれど初日に江戸ツ子が泣を入れたりと云れんは残念なれば
はづむ鼻息を念じこらへてナニサ左様でもないのサと平気をつくろひ軽
井澤に下りて鶴屋といふに着き風呂の先陣へ名乘て勇ましく風呂へ行き
しが直ちには跨ぎて湯に入れず少しく顔をしはめたり
第 三 回
風流は寒いものとは三馬が下せし定義なり山一つ越えて軽井澤となれば
國も上野が信濃となり管轄縣廳も群馬が長野と變るだけありて寒さは十
度も強しといふ前は碓氷後は淺間の底冷に峠で流せし汗冷たく身軽を旨
の旅出立わなゝ震ふばかりなり宿の女子心得てニ階座敷の居爐裡に火
を澤山入れながら夏の涼しき事を誇る蚊が出ぬとて西洋入が避暑に来る
とて夫れが今の寒さを凌ぐ足にはならず早く酒を持ち来たれ。畏まりぬ
と答へばかりよくして中々持ち来らず飢もし渇もしたるなり先づ冷にて
よし酒だけをと頼めど持来ちず徳利などに入るゝに及ばず有合す碗石五
器にも汲み来れと急きてもいつかな持ち来らず四人爐を圍みて只風雅の
骨髄に徹するを嘆ずるのみ夜風いよゝ冷かなりトばかり有りて頓て膳
部を繰り出し来りぬ續いて目方八百五十目といふ老鶏しかも雄にて歯に
乘らざる豪傑鍋も現はれぬ是等の支度をせんには二時三時間経ちしも無
理ならず斯く膳部取揃はぬに酒をですは禮法に背くものと心得たる朴實
これまた風雅の骨なり兎も角も有合せもので先づ御酒をと云ふは江戸臭
くして却って興味なし諸事旅は此事よと稱して箸を下すに味ひ頗ぶる佳
し労れを忘れて汲みかはせしが初日ゆゑか人々身体に異常をおぼえて一
徳利と極めし數にも足らで盃を収めたり夜具も清くして取扱ひ丁寧なり
寐衣とて袷を出したれど我はフラネルの単衣あればこれにて寐んと一枚
を戻せしにいかに悪くは聞取りけん此袷汚しと退けしと思ひ忽ち持ち行
きて換へ来りしを見れば今仕立しと見ゆるハ丈絹の小袖なり返せしは左
る心にてはなし是が痛心よければ別に痛衣に及ばずと云しなりと詫てま
た戻せしが是にても客を大切と思ふ志しは知られたり然らば痛らんと蒲
團に潜り今日道々の景色に
行く春を追ふて木曾路の倭かな
など考ふるに限はさえて今宵は草臥に紀行も書ざりしが明日の泊りは早
くして必らず二日分詔むべし四人別々に書く紀行拙者も貴公も同案にて
は可笑からずハテ甘く書きたいもの何ぞ名案名趣向名句もせめて一二句
は彼も斯して是もまたカウゝグウゝ鼾の音偖よく人は睡らるゝよ障
子を洩りて領に入る淺間の山の雪おろし弓なりに寐るつる星の二階是等
も何ぞの取合せと思ふ折しも下屋賑はしく馬士人足の酔ひたるならん祭
文やら義太夫やら分らぬものを濁馨上げ其の合の手には飲ませじと云ふ
酒を今ま一合注げニ合温めよと怒りつ狂いつどしめくなり酔ての上の有
様は彼も此もかはりはなし耻べきかな酔狂惧むべきかな暴飲
泥まみれこれが櫻の葩か
降りつゞく雨明日の空までの事を思へば水の流れもまた雨と枕に傅へて
詫し夜はおそく明けぬ今日は軽井澤より越後直江津まで通る信越鐵這と
かいふ鐵道に乘り追分驛の先小田井といふまで至らんと朝立出れば此ほ
とりは淺間の麓の廣野にて停車場まで行く間灰の如き土にて草も短かし
四方の山々に雉子鶯の聲野には雲雀の所得顔なる耳も目も榮耀を極めぬ
しかし芭蕉翁に「雲雀啼く中の拍子や雄子の聲」と先に出られたれば一
句心なし
第 四 回
朝靄山の腰をめぐりて高くあがらず淺間が嶽に残る雪旭の光にきらめき
たり滊車の走るに両側を眺むる目いそがはし丘を掘割し跡にわずかに生
出し躑躅岩にしがみ付て花二つ三つ削落せし如き巌の上に小松四五本立
り其下に流るゝ水雲の解けて落るにや流早く石に礙られてまた元の雪と
散るを面白しと云もきらぬうち雑木茂る林に入る林を出ればまた廣野に
て焼石昔し噴出せしまゝなり開墾せんにも二三尺までは灰の如き土にて
何も作りがたしとぞ此所は軽井澤より沓掛追分小田井の三宿の間なり四
里程なれば忽ち小田井に着きて滊車を下りしが下りてグルリと廻って見
ると方角さらに分らずいづれが行先歸る道と評議する顔を見て通りかゝ
りし學校教員らしき人御代田へは斯う參られよと深切なり御代田とは小
田井が改名せしなり一禮して其の如くに行く此ほとりの林の中に櫻吹き
野にはシドメの色を飾り畑道は董蒲公英田には蓮花艸紅きものを敷きつ
めたるやうなり
足元を花に気遣へば揚雲雀
宿は永くまばらに續きたり此を過て岩村田までまだ四方の山遠く気も廣
々と田地開けたり岩村田よりやゝ田近くなり坂道もあり此にていづれも
足取重げなれば車を雇はんとせしが其の相談のうちに宿を出はなれたり
梅花道人いかににてか後れて到らず偖こそ弱りて跡へ残りしならん足は
長けれど役には立ず長足道怖し馬乘らぬとは此事だと無理を云ふうちオ
イゝ諸君の荷物を此方へ出したり宜しい諸事僕が心得た先の宿で待つ
よと跡より驅来りて梅花道人手軽く三人の荷を取りてIまとめにするゆ
ゑ是はいかにと怪しむ跡より盬灘への歸り車とて一挺来るこれ道人が一
行に一足後れて密に一里半の丁場をわずか六銭に掛合此の抜掛は企てし
なり昨日碓氷の働きと云ひ今ま此の素早さに三人の旅通先を取られて後
生畏るべしと舌を吐くうち下り方のよき道なれば失敬と振り廻す帽子は
忽ち森の陰となりぬ畜生侮ツて一番やられたよし左らば車が早きか我々
の脛が達者か競争を試みんと口には云しが汗のみ流れて足は重し平塚村
といふに小高き森ありてよき松の樹多し四方晴れて風冷しきに此の丘に
上れば雌松雄松が一になりし相生あり珍しき事かなと馬を曳きて通る男
に聞けば女夫松とて名高きものなりといふ丘の上に便々館湖鯉鮒の狂詠
を彫りし碑あり業平も如何したとかいふヘボ歌ゆゑ記憶をすべり落ぬ辷
る赤土に下駄を腰の臺としてしばらく景色を眺め此丘一つ我物ならば此
に讀書の室を築き松風羅月を侶として澄し込んものと叉しても出来ぬ相
談を始め勝他に到れば住んことを望み佳景にあへば一句してやらんと思
ふ此等みな酒屋の前に涎を垂し鰻屋の臭に指を咥へる類なり慾で満ちた
る人間とて何につけても夫が出るには愛想が盡る人生居止を營む竟に何
人の為にトするぞや眺望があって清潔な所を拙者が家だと思へば宜いハ
テ百年住み遂げる人は無いわサト痩我慢の悟りを開き此所の新築見合せ
とし田へ引く流に口を漱ぎ冗語を勞れの忘れ草笑聲を伽の野は長く駒の
形付たる石ありといふ駒形明神の坂も過ぎ盬灘へこそ着きにけり
第 五 回
盬灘にて早けれど昼餉したゝむ空暗く雲重ければいさゝか雨を気遣ふ虚
に付け入り車に来れと勤むハ幡の先に瓜生峠とてあり其麓までと極めて
四挺の車を走らす此邉の車には眞棒に金輪をつけ走るとき鳴り響きて人
を避けさするやうにして有り四挺の車に八の金輪リンゝカチヤゝ硝
子屋が夕立に急ぐやうなり盬灘の宿を出はづれの阪道に瀧あり明紳の杜
心地も清しく茂りたり瀧の流に水車を仕掛流の末には杜若など咲き躑躅
盛りなりわづかの處なれど風景よし笠翁の詩に山民習得て一身慵し間に
茅龕に臥し倦て松に倚る却て辛勤を把て澗水に胎る暁夜を分たず人に代
つて舂くとあるも此等のおもかげかしばしと立寄りたれど車なれば用捨
なく駈け下る下れば卽ち筑摩川にて水淺けれど勇ましく清く流れて川巾
は隅田川ほどあり船橋掛る半渡りて四方を見れば山々雨を合みて雲暗く
水の響き凄じ斯る折名乘りも出よ時鳥
驀地馬乘り入れん夏の川
筑摩川春ゆく水はすみにけり消て幾日の峯の白雪とは順徳院の御製とか
大なる石の上にて女衣を濯ふ波に捲き取れずやと氣遣る向の岸の方に此
川へ流れ入る流に水車を仕掛あり其下はよどみて水深げに青みたるに鵞
鳥の四五羽遊ぶさながら繪なりハ幡を過ぎ金山阪下にて車は止る瓜生峠
を越ゆるに四歳ばかりの女子父に手を引かれて峠を下る身はならはしの
者なるかな角摩川といふを渡りて望月の宿に入るよき家並にていづれも
金持らし此は望月の駒と歌にも詠まるゝ牧の有し所にて宿の名も今は本
牧と記しあり。宿を通して市の中に清き流れありてこれを飲用にも洗ひ
物にも使ふごとし水切にて五六丁も逍き井戸に汲に出る者これを見ばい
かに羨しがらん是より雁とり峠といふを越ゆ峠らしくなく眺望よき阪な
りいばら阪といふとか道々清き流を手に掬びては咽喉を濕す人々戯れて
休まんとする時には「ドウダー杯やらうか」といふ此の一杯やらうが一
丁ごとぐらゐになると餘程勞れたるなり蘆田の宿より先に未だ峠あり石
荒阪といふ名の如く石荒の急阪にて今までのうち第一等の難所なり阪の
上へ到れば平なる所半丁ほどありて草がくれの水手に掬ぶほども流れず
下りて一丁ほど行けば此の水山の滴りを合せて小流れとなる下るまた一
二丁流は石に觸れて音あり叉下る三四丁流れは岩に激して雪を散らす下
ること叉四五丁川となりて水聲雷の如し坂を下り終れば川巾廣く穏かに
流れて左右の岸には山吹晩き亂れ鳥うたひ魚躍るはじめは道端のヒョロ
ゝ流れ末は四面の田地に灌ぐ河となる岩間洩る滴りも合する時は斯の
如し小善とて嫌ふなかれ積めば卽ち大善人小悪とて許なかれ積めば卽ち
大悪人富は星を潤し徳は身を潤す富は少しき費を省き少しき利を集めた
るなり集りて富となれば星を潤すばかりでなく人を潤し業を興す流れの
及ぶところ皆な潤す徳は少しの善行を重ねたるなり其功徳身を潤すに止
まらず人をして知ずゝの間に善に導き逢ふ所燭るゝところ皆な徳に潤
はずるなし學問もまた斯の如し今日一事を知り明日また一事を知る集り
て大知熾火學者とはなるなり現に今ま此の水を見る自ら省みて惑深し草
を藉いてしばらく川に對す
第十六回ゟ第二十回迄
第十一回ゟ第十五回迄
第六回ゟ第十回迄
第一回ゟ第五回迄
by dehoudai
| 2012-10-11 13:31
| ほん
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