2012年 04月 10日
斗南藩士上陸の地 |
「北洋館」すなわち「旧大日本帝国海軍大湊統監部将校集会所」の手前に看板が立っている。看板が立っているだけで、会津若松城の石を使ったという石碑は無い。看板の向こうはみぞれの吹き付ける内海だ。護岸の管理道伝いに付近を探ってみると、四阿様のものが建っている。そこまで行くと四阿の奥に石碑が建っているのが見えた。四阿が石碑を隠しているのだった。
石碑の道路側には「大湊ホタテセンター」なる施設があって、道路からは石碑が見えないのだ。石碑が建てられた時には「大湊ホタテセンター」は無く、道路から眺める事が出来たのではあるまいか、その後いかなる事情があったか「大湊ホタテセンター」が建ち、石碑は見えなくなってしまったのだ。地下の山川将軍も、相手が薩摩藩ならいざ知らず、ホタテセンターにやられてしまうとは憤懣の極みでは無かろうか。
この際会津若松市民から義援金を集めて「大湊ホタテセンター」を買い取ってしまうというのはどうだろう。行政がこういう事をやろうと思うと、様々な制約があって大変だと思うが、市民が買う分にはそれ程の障害もなかろうと思う。
斗南藩権大参事山川浩将軍には次の歌があるそうだ。小生三内丸山遺跡を見学した折の感慨に似てはおるが、こちらは艱難辛苦の末なので、中身は大分違う。
みちのくの斗南いかにと人問はば
神代のままの国と答へよ
斗南藩士からは柴五郎将軍も出ている。
「最初の年は昆布しか食うものが無かった。」
「役所まで二里の道程を毎日通うのだが、眠くてわらじが一足しかなえず、途中でばらけてしまうと代えが無いので素足で氷の上を歩くのが辛かった。」
という子供時代を送った将軍は「北京の百日」で多国籍軍の司令官を務めたのち、北京から朝鮮までを雪中踏破している。この折の兵要地誌の調査が、日清戦争の折の軍機となるのだが、これも下北の自然が鍛えた賜物だろう。
塩鰹
六魂彩ーみやぎの詩
下北
斗南藩士上陸の地
某ドナルズ
外が浜
三内丸山村
八幡平
見読
金色堂
blackTiger
港湯
女川の海鮮丼
鹿
一の鳥居
角瓶
by dehoudai
| 2012-04-10 10:03
| まちづくり
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