2012年 03月 19日
反別収量 |
来月12日には新東名高速道路が開通するそうな。これも東京にエサをくれんが為であって、決して静岡県民の日常利便性を向上させんが為ではない。
江戸は都であった訳では無く、東北原住民討伐作戦総司令部所在地、すなわち幕府であるったのは鎌倉と同じだ。かっての立川・嘉手納のゲート前である。
「諸国の掃き溜め(the great wen)」だった江戸を、御一新ということで、会津松平容保公を頼みとする統仁さんを亡き者にした、西国の足軽諸君が、当時15歳の睦仁さんを担ぎ込んで「東京」ということにしてから、事態は更に悪化した。
東照宮が仕組んだ「年貢はとにかく江戸へ送って、、」と言う仕組みを更に徹底させて「年貢は東京へ」ということに相成った。ジャカルタ・バンコクなどと肩を並べる「アジア型巨大スラム街」の誕生だ。
どうしてこうなっちゃったかと言うに、年貢当局は未だに旧幕農本時代の「反別収量」から抜けられないでいるのだ。
主権者の総意の元に必要経費を拠出するのが税金であるならば、何とか言いくるめて人民から巻き上げれば、後は仲間内でどう使おうが勝手、と言うのが年貢であるから、現在の日本にあるのは年貢であって、到底税金とは言い難い。
領地が限られていた旧幕時代、年貢の増収は反別収量を上げる事だった。年貢が米の収量では無く、所得で決まる様になって、人口密度を上げさえすれば年貢の増収が可能になった。
人口密度が上がれば道路・上下水道の如き公共施設も最低限で済む。業者に小綺麗なマンションでも作らせれば、無知蒙昧な人民は喜んで高層スラム街に住む。
今次の震災で集団移転の敷地面積が330㎡までとされ、奥羽各州の人民はあきれ、怒っておるが、結構根は深いのだ。
by dehoudai
| 2012-03-19 21:11
| まちづくり
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