2012年 03月 05日
八丁畷 |
成子坂から東若林交差点までが江戸時代からの軟弱地盤帯だ。田尻は田尻なのであって、ここへ田舟で米を集めて、源太夫堀から掛塚へ送って江戸へ積み出した様だ。
自然堤防の間、現在の可美公園のあたりがおおむね江戸時代の蓮池に当たる。田尻から上ったところには池が見えるが、ここから上左に伸びているのが新川だ。新川は江戸時代の物資輸送の幹線だった。
御一新を迎えて、浜松藩が取り組んだのは「新物流システム」だった。成子坂下の東伊場に船溜まりを設けて新川経由鷲津日ノ岡まで、新式の汽船が通れる様「用水堀」が掘り広げられた。しかし十年ちょっとの後、突然天から降ってきた岡蒸気は井之田通船をひき殺してしまった。
しかし鉄道以降も、産業史の表面から姿を消した、地域の舟運は長く残った。昭和の始め、西風で掛塚まで流されてしまった漁船が、遠州灘は到底乗り越えられないと、掛塚から源太夫堀・田尻を通り、八丁畷で東海道をくぐると新川を通って舞阪までたどり着いた、という聞き書きが、確か「舞阪町史」に収録されている。
今回の震災で被害の大きかった津波に対しては、こうした昔からの自然堤防が災害防止に大きな枠割りを果たすはずだ。しかし地震そのものに対しては、自然堤防も基盤となる地盤の条件が様々であるようだ。若林町の東海道より北側、比較的海抜の高い敷地でも、東海道の路盤となっている砂層には地帯力が期待出来ず、南の蓮池の下と同じ支持地盤まで杭を打った、という話も聞いた。
明治23年の参謀本部の地図は、人工物がささやかで、地形の特徴と、古くからの防災の知恵が読み取りやすいので、今後の防災計画の参考としても貴重だ。
by dehoudai
| 2012-03-05 18:58
| まちづくり
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