2011年 12月 10日
わくわくの無い国 |
お題が「原発反対」という、やむにやまれぬ生活防衛だったこともあるのだが、集まった人々がやむにやまれぬ生活防衛に疲れ果てている感じだった。
1968年には「異議申し立て」と言っても、「未来を作る」というノリだったものが、40年経ってみると、未来は明るいものには見えない。組織動員で来たらしい人々も一様に高齢化して、生活に疲れた様子だ。市民運動っぽい人々も「食べ物」「マンション」などから、やむにやまれぬ生活防衛で集まっている感じで、「市民が築く未来」という雰囲気は無い。
集会に集まった人々だけでなく、横断歩道で交差するカンケー無い人々も、やはり同じように生活防衛で疲れきっている感じがする。「銀座でお買い物」といっても、「ものを買えば幸せになれる」というわくわく感が稀薄で、「他に幸せになる手段を持たないので、仕方なく買い物をしている」という感じ。警備に当たる若い警察官諸君も、40年前のように「やるか、このやろう。」では無く、生活のために仕方なくやっている感じ。大江健三郎先生も老人と化している。
おそらく日本だけではなく、米国・欧州という20世紀を仕切っていた先進工業国は、軒並み「わくわくの無い国」に成り下がっているのではなかろうか。質素だけれども明るい未来を信じていた、40年前に比べ、世界でも最も贅沢な暮らしをしながら、どんよりとした未来しか無い我が国の、贅沢な暮らしの影の部分を、象徴しているのが原発だろう。さっきまでは月夜だったものが今は真っ暗だ。
by dehoudai
| 2011-12-10 23:21
| まちづくり
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