2011年 02月 12日
浜松城 |
先ずは10年程掛けて天守門と富士見櫓を整備する、ということで、「斯界の権威」が静まり返った会場で立て板に水の説明をしていた。「お城愛好家」でない私から見れば、お城が整備されれば幸せという無条件の価値観で、会場が満たされていたことからも、来場者が「お城愛好家の皆様」であったことが伺われる。コーディネーターが「浜松城を中心にしたまちづくりの可能性を考える」と水を向けても、聞く耳は持たないのだ。
愛好家の皆様はこれで幸せになれるのだが、市民全体からすれば大多数とはならないだろう。中心市街地からお城を仰ぎ見ることが出来ても、それだけで市民の誇りとなり、市の活気が増す、という訳でもなかろう。会津若松城に莫大な市民のエネルギーが集中しているのは、それが慶応4年9月22日を末代までの記憶に残さんがためであり、現代の日本を形作る東京を中心とした同心円への異議申し立てでもあるからだ。熊本城も同様に、本丸炎上を通じて西南戦争の記憶を伝えるためのものであり、消すことの出来ない怨念が、地域性のひとつの源となっている。浜松人が会津人・熊本人に較べて、「誇り」に欠けるきらいがあるのも、怨念が少ないという面もあろう。
浜松城の歴史的な整備を行うのは、何のためだろう。愛好家の皆様は戦国合戦絵巻を演ずるのも良かろう。そのためには鎧兜の貸し出しも良かろう。近所のホテルで結婚式をやれば、記念写真にお城が良く映るのも良かろう。しかしそれだけで莫大な税金を投入するのに、市民の大方の賛成を得ることが出来るだろうか、ちと疑問である。会津若松は鶴ヶ城あっての会津若松かもしれないが、浜松は浜松城が無くても浜松だ、と考える市民も多かろう。しかし、では、その「浜松」とは一体なんだろう。
インターネットを通じて各地の人々に浜松を紹介していると、色々面白いことがある。例えば次の様なものだ。
「SUZUKIの本社があるよ。」
「そうなんだ。」
「YAMAHAの本社もあるよ。」
「へーっ。」
「HONDAも浜松から始まってるのだよ。」
「何だって!」
「TOYOTAだって隣町の主身だよ。」
「……(絶句)」
というわけで国内ではなんとなく地方工業都市で済ませられてしまうものが、他国の人にとっては「浜松とは一体なんだろう?」という、大きな疑問符になって膨らむ様だ。そうすると何やら浜松というのは、最近の言葉で言えば何かの巨大な「パワースポット」、建築・都市計画分野では「ゲニウス・ロキ=地霊」と称されるものが、浜松にもあるかもしれない、という気がして来る。
そして今から400年程前に、これに気が付いてしまった人が居た、と考えることも出来よう。あの「あっちを見ているようで、実は別の方を見ている」家康君は、単に「信玄君は強そうだから、「背水の陣」は止めて「臨水の陣」にしよう。」と考えただけでなく、浜松に隠された巨大な「ゲニウス・ロキ=地霊」に気付いてしまったのかもしれない。
これから浜松市民の多くが望むものは、21世紀の乗り切る活力の元だろう。これまで「浜松の地霊」は、それに気付いたものに限って「征夷大将軍」の職を与え、繊維から自動車に至る「世界企業」を与えて来た。しかしこれからは市民の誰もがこの「浜松の地霊」を理解し、それを活用しなければ生き残れない競争社会となっている。世界の各地から浜松を訪れる人々も、「浜松とは一体なんだろう?」とその繁栄の秘密を探りに来ている。我々に課せられた課題は、家康以来の浜松城も、同じく拠って立つところの「浜松の地霊」を解明し、「浜松とは一体なんだろう」という問いに、誰もが理解出来る答えを用意することではなかろうか。浜松城はこの「浜松とは一体なんだろう」という物語の表紙を飾るものとして、かけがえのないものだ。
by dehoudai
| 2011-02-12 11:11
| まちづくり
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