2010年 12月 02日
ノブレス・オブリージュ |
「高貴な者は義務を負う」などと訳される様だがどうも座りが良くない。それほど古い言い回しではなく、南北戦争の少し前に、ジョージア植民地最大の領主に嫁いだ英国女優が、プランテーションの有様を見て、「奴隷制度の危険性と悪を示すために私に出来る限りのことをするのが義務である。」と言ったのが最初の様だ。米国には無く、欧州には有った貴族とは何か、をも少し良く考えれば、言葉の座りが良くなるのではなかろうか。
国王から領地を安堵されたものが、すなわち貴族であって、例えば英国ではこれが土地所有制度の根幹を成している。それゆえ英国では現在も、土地所有者は800余名に過ぎないと言う。今風に言えば、貴族というのは地主のことなのだ。先日スウェーデンのヴィクトリア王女が、王女のフィットネス・トレイナーをしていた平民と結婚したが、ダニエル君は成婚と共に貴族に叙せられ、王室財産の分与を受けて、ワステルゴットランド公ダニエル殿下と呼ばれる様になった。貴族であるからには、どうしても領地が欠かせないのだ。
ジョージアに嫁いだファニー・ケンブルさんが「確かに『貴族が義務を負う(noblesse oblige)』のならば、王族はより多くの義務を負わねばならない。」と書いたのが、この言葉が使われた最初だそうだ。この「王族」がすなわち、現在に至るまで英国最大の地主となっている。してみるとノブレス・オブリージュとはすなわち「地主の仕事」と言って良いのではなかろうか。歴史的な「地主」の、我が国と西欧との違いを明らかにすれば、言葉の意味は良く分かる。
単位面積辺りの土地生産性が低い、畑作小麦+牧畜を基礎にした西欧社会は、土地本位制文化を発展させたが、労働力を集約して投入することで、はるかに高い土地生産性を実現出来る水田稲作では、土地所有権よりも、人頭支配が文化の基礎を成した。現在でも「俺がお前の言うことを聞くか、お前が俺の言うことを聞くか。」という人頭支配は日本文化の根幹を成している。謡曲の、例えば「田村」では「地主」は「ジシュ」と読まれ、生産・生活空間を安堵してくれる「地主大権現」であって、土地所有権に付いて言っているのではない。
明治の文明開化とともに、年貢は地租となり、土地売買が可能になった。更に戦後の農地解放で、永年、生産・生活空間について、最終的な責任を担って来た地主階級が、解体されてしまった。生産から生活までの、人間活動の総和である地域の環境に、最終的な責任を負う者が居なくなってしまったのだ。かくして日本の国土利用はゴートーケイタとドロボーコージローの戦いの場になってしまったのだ。
農地解放が及ばなかった林野でも事態は同様で、静岡県下の山林地主には「俺が死んだら、買ったピカソの絵も一緒に焼いてくれ。」と言って顰蹙を買うものが出たりした。先日は同じ様な山林地主の幹部社員の顔を見たので、森林認証に付いて訊ねたら、「我が社では、そういうことには一切関わりません。」とおっしゃる。世界事情を研究し尽くして後、WTOを敵に回して頑張るおつもりかと、感心したらそうではなく、さっぱり勉強をしていないらしかった。
さて浜松にはKさんと言って、天竜川筋の山林地主がおいでである。昔風の「地主大権現」として「心を労」しておられる。大学教授なんてのが、大方は知識で生業を立てる、程度が低ければシロート衆に、外国文献で見知ったウソを伝授して食っているのに較べると、Kさんは本格派の知識人である。学んでおれば口に糊することの出来る連中に較べ、学ぶのは常に領地経営を問うているからだ。「学者」が知識人ともてはやされて来たことが、いかにこの国の未来を暗くしていることか。
天竜川筋にも満州への挙村移民の村あることからか、中国東北部への関心を深められ、最近は沖縄に関して研究されている様だ。知識で生業を立てる必要がないので、大学教授何ぞから見ればさぞ「遊び人」に見えるだろうと、小生は数年前に軽口をたたいたところ、御不興を蒙ってお出入り禁止である。こうした人なら、知識で生業を立て無ければならない「学者」と違い、「学問者」としてノーブレス・オブリージュの意味をきちんと理解しておられるのではあるまいか。
by dehoudai
| 2010-12-02 21:43
| まちづくり
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