2010年 11月 23日
サバービアの憂鬱 |
大場正明
東京書籍1993
戦後米国の郊外住宅地のありようを、映画・小説・絵画などから描き出そうというのが本書だ。著者は映画評論家であるらしい。
様々な切り口から、1950年代以降のアメリカンドリーム、ライフスタイル、社会構造、消費文化、人種問題、家族の崩壊、等々々々について、映画・小説のあらすじ、絵画の構図について述べ、著者の評論を付しているのだが、読後感はと言うと、ヴィデオ屋から「米国映画」の棚ごとヴィデオを借りて来て、見続けたら、ああくたびれた、という感じ。
オムニバス形式、という点では
イヤー・オブ・ミート
ルース・L. オゼキ
アーティストハウス 2008
も同じなのだが、あちらは一人の作家によるオムニバスで、テーマ毎に作家が掘り下げている。こちらは映画評論家のヴィデオ鑑賞記録、というわけで、戦後アメリカ映画を総ざらいしている感がある。あれも面白い、これも面白い、というのが延々と続き、そのうち疲れてくる。映画評論家というのも大変な仕事だ。
ともあれ戦後米国の郊外住宅地を覗いてみよう。本書には口絵若干しか無いので、下図を参照いただければと思う。1950年代の開発になるシアトル市内の住宅地だ。 大方の場所はグーグルのStreetViewで確認出来る。そして現代の日本人が飢えている「緑が欲しい」という町並み景観も、江戸伝来のものでなく、絶え間なくテレビなどから流し込まれる、米国の郊外住宅地の風景が、元になっているのではないか、という思いにとらわれる「これが本物だよ。」と。そして50年代にはキラキラと輝いていた、アメリカンドリームを絵に描いた郊外住宅地なのだが、読み続けるうちに、だんだんげんなりとさせられる。
開発に必要な人員を、移民として受け入れて来た米国は、第一次大戦後急速に産業近代化を進めた。第二次大戦の復員兵を受け入れたのは、こうした近代産業だったところに著者は着目する。地場産業の廻りに、地域社会を造って暮らして来た、それまでの米国人には想像出来ない、「顔の見えない」世界企業の従業員が大量に生み出された。「草の根」の暮らしから、根を引き抜かれた給与生活者に、幸せを保証するのが、それまでの市街地の彼方に急速に広がった、郊外分譲地だったのだ。
狭苦しい市街地が、次第に黒人等の低所得者や、東欧・アジア等からのニューカマーに浸食された時、自家用車通勤を前提とする、芝生のある一戸建てが、WASPの給与生活者に「アメリカンドリームの実体化」としてオイデオイデをしていたのだ。
ところが「バックトゥーザフーチャー」のマーティー君が、50年後の郊外住宅地に戻ってみると、結構づくめと見えたそこは、それほど魅力的では無いばかりか、これが幸せの実体なのかと、首を傾げざるを得ないところまで来てしまっている。かって日本人は「働く為に生きる」エコノミックアニマルだと、指弾された。しかし現代米国の小市民にとって、郊外住宅地の芝生のある一戸建での暮らしが、実は「消費する為に生きる」という純粋消費者の大量生産だったのがはっきりして来たのだ。
ウェブにはブラックフライデーの売り出しに一番乗りをする為、店の前に一週間以上も前からテントを張って待っている人が見られるが、「これが幸せだ。」と信じようとしている姿は、端から見ると滑稽であり、悲しげでもある。
対岸の出来事、と笑って済ませられないのは、1960年代以降の、日本に於ける住宅供給が、米国のサバービアの辿った道のりを、そのままなぞっているのだ。戦災復興期の公営住宅に始まった日本住宅公団は、サッチャー政権が公営住宅の強制払い下げをやる前から、持ち家政策へと転換して、民間マンション業者の地上げ屋となってしまった。
米国では地域の開発業者が行っていた、「芝生のある一戸建て」は、日本では地域のまちづくり等おかまい無しの、全国メーカーによる商品化住宅に食いつぶされつつある。
日本を訪れる外国人が面白がるものの一つに、レストランのサンプルがある。文明開化までは「煮掛け八文、ネタ十六文、天婦羅三十二文」で済んでいた食べ物が、見たことも食べたこともない洋食に変じたとき、国民に道の食べ物を教え込んだのが、サンプルのロウ細工だった。これと同じ様に、畳の上で幸せな暮らしをしていた日本人に、「モダンリビング」を強要する際に、威力を発揮したのが「住宅展示場」だったのだ。
かくて「働く為に生きる」エコノミックアニマル」と化した日本人は、何の為に働くか、と問われれば、「持家を買う」為に働き続ける、ということになってしまった。それまでの「火事と喧嘩は江戸の華」と同じく、「モダンリビング」とはいうものの、30年で借金を払い終わると、「建替えてくれなきゃ困ります。」と言われそうな商品化住宅は、日本経済の活力の元として威力を発揮した。「都市の破壊と建設」に奉仕する為に、都市勤労者が人生を送るのだから、住宅は国家経済を支える大きな柱だったのだ。
現今、バブル崩壊に続く人口減少で、相変わらず「土地が無い」と言わんばかりの首都圏の縁辺部でも、過疎地が「芝生のある一戸建て」の郊外住宅地を浸食しつつあ現在、住宅供給も次の段階にさしかかっている。「芝生のある一戸建て」を実現した国民総地主化という土地所有制度では、細分化された住宅地の土地所有権が、将来の足手まといになることが考えられる。
資本主義経済では水が低いところへ流れる様に、経済合理性に国民が奉仕してくれなければ困るのだ。一般大衆が「土地は資産だ。」などと言い張っては、国際競争はおぼつかない。というわけでマンションに大きな期待が集まる。あれは「耐久消費財」であって、「資産」ではないのだから、所有者が言を左右にしたところで、劣化は進み、いずれ産業廃棄物となってくれる。敷地となっている土地資産は、戸当たり数坪に過ぎないので、バラバラにしたら資産と言える様なものではない。次の開発業者がどうにでも出来るシロモノなのだ。
一生働いて家一軒だったものだが、「芝生のある一戸建て」では敷地が資産として残ってしまい、経済合理性の足手まといとなる。1,000以上も前の建物を使い続ける、EUの町並みなどをまね、「芝生のある一戸建て」同様の値段で、30年も経てば産業廃棄物となってくれる分譲マンションが「日本人の住まい」になれば、多少の環境負荷に目をつぶりさえすれば、経済合理性の行き着くところとして、当然だともいえるのだ。どうせ所得が下がれば、共稼ぎで労働時間は長くなり、「暮らし」とか「幸せ」など、住宅に期待するものも無くなるだろう。
ウォールストリートジャーナル
ヘイトアシュベリー
サバービアの憂鬱
超高層マンション
高層集合住宅のこれから
東京書籍1993
戦後米国の郊外住宅地のありようを、映画・小説・絵画などから描き出そうというのが本書だ。著者は映画評論家であるらしい。
様々な切り口から、1950年代以降のアメリカンドリーム、ライフスタイル、社会構造、消費文化、人種問題、家族の崩壊、等々々々について、映画・小説のあらすじ、絵画の構図について述べ、著者の評論を付しているのだが、読後感はと言うと、ヴィデオ屋から「米国映画」の棚ごとヴィデオを借りて来て、見続けたら、ああくたびれた、という感じ。
オムニバス形式、という点では
イヤー・オブ・ミート
ルース・L. オゼキ
アーティストハウス 2008
も同じなのだが、あちらは一人の作家によるオムニバスで、テーマ毎に作家が掘り下げている。こちらは映画評論家のヴィデオ鑑賞記録、というわけで、戦後アメリカ映画を総ざらいしている感がある。あれも面白い、これも面白い、というのが延々と続き、そのうち疲れてくる。映画評論家というのも大変な仕事だ。
ともあれ戦後米国の郊外住宅地を覗いてみよう。本書には口絵若干しか無いので、下図を参照いただければと思う。1950年代の開発になるシアトル市内の住宅地だ。
開発に必要な人員を、移民として受け入れて来た米国は、第一次大戦後急速に産業近代化を進めた。第二次大戦の復員兵を受け入れたのは、こうした近代産業だったところに著者は着目する。地場産業の廻りに、地域社会を造って暮らして来た、それまでの米国人には想像出来ない、「顔の見えない」世界企業の従業員が大量に生み出された。「草の根」の暮らしから、根を引き抜かれた給与生活者に、幸せを保証するのが、それまでの市街地の彼方に急速に広がった、郊外分譲地だったのだ。
狭苦しい市街地が、次第に黒人等の低所得者や、東欧・アジア等からのニューカマーに浸食された時、自家用車通勤を前提とする、芝生のある一戸建てが、WASPの給与生活者に「アメリカンドリームの実体化」としてオイデオイデをしていたのだ。
ところが「バックトゥーザフーチャー」のマーティー君が、50年後の郊外住宅地に戻ってみると、結構づくめと見えたそこは、それほど魅力的では無いばかりか、これが幸せの実体なのかと、首を傾げざるを得ないところまで来てしまっている。かって日本人は「働く為に生きる」エコノミックアニマルだと、指弾された。しかし現代米国の小市民にとって、郊外住宅地の芝生のある一戸建での暮らしが、実は「消費する為に生きる」という純粋消費者の大量生産だったのがはっきりして来たのだ。
ウェブにはブラックフライデーの売り出しに一番乗りをする為、店の前に一週間以上も前からテントを張って待っている人が見られるが、「これが幸せだ。」と信じようとしている姿は、端から見ると滑稽であり、悲しげでもある。
対岸の出来事、と笑って済ませられないのは、1960年代以降の、日本に於ける住宅供給が、米国のサバービアの辿った道のりを、そのままなぞっているのだ。戦災復興期の公営住宅に始まった日本住宅公団は、サッチャー政権が公営住宅の強制払い下げをやる前から、持ち家政策へと転換して、民間マンション業者の地上げ屋となってしまった。
米国では地域の開発業者が行っていた、「芝生のある一戸建て」は、日本では地域のまちづくり等おかまい無しの、全国メーカーによる商品化住宅に食いつぶされつつある。
日本を訪れる外国人が面白がるものの一つに、レストランのサンプルがある。文明開化までは「煮掛け八文、ネタ十六文、天婦羅三十二文」で済んでいた食べ物が、見たことも食べたこともない洋食に変じたとき、国民に道の食べ物を教え込んだのが、サンプルのロウ細工だった。これと同じ様に、畳の上で幸せな暮らしをしていた日本人に、「モダンリビング」を強要する際に、威力を発揮したのが「住宅展示場」だったのだ。
かくて「働く為に生きる」エコノミックアニマル」と化した日本人は、何の為に働くか、と問われれば、「持家を買う」為に働き続ける、ということになってしまった。それまでの「火事と喧嘩は江戸の華」と同じく、「モダンリビング」とはいうものの、30年で借金を払い終わると、「建替えてくれなきゃ困ります。」と言われそうな商品化住宅は、日本経済の活力の元として威力を発揮した。「都市の破壊と建設」に奉仕する為に、都市勤労者が人生を送るのだから、住宅は国家経済を支える大きな柱だったのだ。
現今、バブル崩壊に続く人口減少で、相変わらず「土地が無い」と言わんばかりの首都圏の縁辺部でも、過疎地が「芝生のある一戸建て」の郊外住宅地を浸食しつつあ現在、住宅供給も次の段階にさしかかっている。「芝生のある一戸建て」を実現した国民総地主化という土地所有制度では、細分化された住宅地の土地所有権が、将来の足手まといになることが考えられる。
資本主義経済では水が低いところへ流れる様に、経済合理性に国民が奉仕してくれなければ困るのだ。一般大衆が「土地は資産だ。」などと言い張っては、国際競争はおぼつかない。というわけでマンションに大きな期待が集まる。あれは「耐久消費財」であって、「資産」ではないのだから、所有者が言を左右にしたところで、劣化は進み、いずれ産業廃棄物となってくれる。敷地となっている土地資産は、戸当たり数坪に過ぎないので、バラバラにしたら資産と言える様なものではない。次の開発業者がどうにでも出来るシロモノなのだ。
一生働いて家一軒だったものだが、「芝生のある一戸建て」では敷地が資産として残ってしまい、経済合理性の足手まといとなる。1,000以上も前の建物を使い続ける、EUの町並みなどをまね、「芝生のある一戸建て」同様の値段で、30年も経てば産業廃棄物となってくれる分譲マンションが「日本人の住まい」になれば、多少の環境負荷に目をつぶりさえすれば、経済合理性の行き着くところとして、当然だともいえるのだ。どうせ所得が下がれば、共稼ぎで労働時間は長くなり、「暮らし」とか「幸せ」など、住宅に期待するものも無くなるだろう。
ウォールストリートジャーナル
ヘイトアシュベリー
サバービアの憂鬱
超高層マンション
高層集合住宅のこれから
by dehoudai
| 2010-11-23 22:56
| まちづくり
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