2010年 10月 15日
修善寺物語 |
修善寺物語
長倉書店刊 2005
著者名が表紙に無いが、岡本綺堂の修善寺物語関連の抜刷りだ。修善寺駅前の書店が、青蛙房の許しを受けて刊行している。修善寺みやげ好適品。
長倉書店店主にしてみれば、修善寺物語あっての修善寺であり、岡本綺堂の作であることは、論を待たず、表紙に著者名を入れるなど不遜である、というところか。表紙の写真も修善寺の寺宝かもしれない。
芝居は明治44年、明治座の5月興行で評判を取ったと言う。前年日韓併合が成り、明治44年には三島楽寿園が「昌徳宮」と呼ばれ、李垠王世子の別邸となっている。昌徳宮楽寿館にも広縁に欄干が廻してあるが、岡本綺堂の修善寺物語でも、鎌倉二代将軍が御所炎上を見やるには、広縁の欄干を掴んでいる。二代将軍も李王世子も悲劇のオボッチャマだ。
明治23年に御殿場越えの東海道鉄道が開通すると、明治32年には三島駅から大仁までチンチン電車が伸びて来て、さらに乗合馬車を乗り継いで修善寺目掛けて観光客が訪れることとなった。
当時「世界最終戦争」と呼ばれた第一次世界大戦から、関東大震災までが、日本に於ける近代的大衆消費の始まりであろうが、チンチン電車と乗合馬車を乗り継いで、修善寺まで来よう、という人々は、限られた恵まれた人達であっただろうことが、尾崎士郎の「人生劇場」などから伺われる。一般大衆が「伊豆の山々月淡く」というテーマソングに乗って、貸し切りバスで押し寄せるのは、昭和も30年代になってからだろう。
古賀政男の「湯の町エレジー」は戦後も昭和23年の歌だというが、国交の断絶下時代のこの歌が、国民党への反感も有ってか、台湾人の愛唱歌になっている、というのも面白い。今や伊豆の温泉も中国人観光客で食いつないでいる。京都・奈良を廻って、ディズニーランドへ向かう途中で、伊豆の温泉に着くのだが、その前に「ちびまる子」を見てくる、というのが今どきの中国向け観光コースだそうな。
昨日の昌徳宮には、8月来市内を暴れ回った、かみつき猿が保護されていた。こちらの方は一番ほっとしたのは猿自身、という顔をしていた。
長倉書店刊 2005
著者名が表紙に無いが、岡本綺堂の修善寺物語関連の抜刷りだ。修善寺駅前の書店が、青蛙房の許しを受けて刊行している。修善寺みやげ好適品。
長倉書店店主にしてみれば、修善寺物語あっての修善寺であり、岡本綺堂の作であることは、論を待たず、表紙に著者名を入れるなど不遜である、というところか。表紙の写真も修善寺の寺宝かもしれない。
芝居は明治44年、明治座の5月興行で評判を取ったと言う。前年日韓併合が成り、明治44年には三島楽寿園が「昌徳宮」と呼ばれ、李垠王世子の別邸となっている。昌徳宮楽寿館にも広縁に欄干が廻してあるが、岡本綺堂の修善寺物語でも、鎌倉二代将軍が御所炎上を見やるには、広縁の欄干を掴んでいる。二代将軍も李王世子も悲劇のオボッチャマだ。
明治23年に御殿場越えの東海道鉄道が開通すると、明治32年には三島駅から大仁までチンチン電車が伸びて来て、さらに乗合馬車を乗り継いで修善寺目掛けて観光客が訪れることとなった。
当時「世界最終戦争」と呼ばれた第一次世界大戦から、関東大震災までが、日本に於ける近代的大衆消費の始まりであろうが、チンチン電車と乗合馬車を乗り継いで、修善寺まで来よう、という人々は、限られた恵まれた人達であっただろうことが、尾崎士郎の「人生劇場」などから伺われる。一般大衆が「伊豆の山々月淡く」というテーマソングに乗って、貸し切りバスで押し寄せるのは、昭和も30年代になってからだろう。
古賀政男の「湯の町エレジー」は戦後も昭和23年の歌だというが、国交の断絶下時代のこの歌が、国民党への反感も有ってか、台湾人の愛唱歌になっている、というのも面白い。今や伊豆の温泉も中国人観光客で食いつないでいる。京都・奈良を廻って、ディズニーランドへ向かう途中で、伊豆の温泉に着くのだが、その前に「ちびまる子」を見てくる、というのが今どきの中国向け観光コースだそうな。
昨日の昌徳宮には、8月来市内を暴れ回った、かみつき猿が保護されていた。こちらの方は一番ほっとしたのは猿自身、という顔をしていた。
by dehoudai
| 2010-10-15 11:57
| きせつ
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