2010年 06月 30日
日本をしゃぶろう |
1643年の「土地永代売買禁止令」以降それなりに安定していた、我が国における中心市街地の土地利用は「産業近代化には、西洋と同じ土地制度が必要」という明治の地租改正によって混乱が始まり、企業による資産運用のコマに使われた挙げ句、日本国内の土地資産には、なんの価値も認めない国際金融資本による、1987-1993年のバブルのでっち上げと崩壊で、一段落を迎えたものと思われます。バブル期に国内から海外に吸い上げられた「富」は、物価換算で太平洋戦争の戦費の2倍、と読んだことがあります。
現在と同じ財政破綻の先例として、仙台を「杜の都」と呼ぶ由来に付いて、どこかで読みかじったことを
長い平和が消える
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/dh07/peace/peace2.html
に書いておいたのでご参照ください。
それまで「田園都心」だった浜松における、地検発行から東海道鉄道開通までの、中心市街地の土地利用の、混乱ぶりを記した記事があったのですが、出典を明らかにしておかないと、揚げ足を取られかねないので、図書館へ出向き、原書を確認してきました。文彬、會田忠さんは当時の浜松のジャーナリストの重鎮です。岩崎市長の跋文が付いているので、これなら揚げ足は取られないでしょう。
濱松風土記
會田文彬 著
昭和28年12月1日
濱松市鴨江町451
浜松出版社
會田 忠 発行
数字と句読点を改めた
肴町
p44
鶴亀山大安寺は天林寺末で、元は名残抹香坂にあったが、寛文2年肴町に移った。寺領地は田町、鍛冶町、旭町から海老塚方面に及ぶ広大名もので、明治4年地租改正が始まったとき、その大半を人々に無償で呉れてしまった。明治22年までは土地の所有を恐れて、一反歩につき銭十銭以上、酒一升をおまけにつけねば貰い手が無かった。これを先を見越して八方から貰い集め、又は誤魔化したりして富豪になった者も、随分あると取沙汰された。大安寺には豊川稲荷が祀ってあり、明治時代参詣人で賑わい、昭和25年福徳毘沙門天が勧請された。
どんな景観だったか、ちょっと想像がつかないので、挿絵を一つ。
明治40年頃の「板屋町裏」です。作者は伊藤弥恵治。中央図書館の郷土資料室にスケッチブックの複製があります。東海道の通りに面して、映画のセットよろしく町家が一列だけ並び、裏側は「田園」だったことが解ります。
こちらは明治13年頃の、現在で言う四谷警察署付近。まあ似た様なもんです。幕末・明治に日本を訪れた西洋人が、異口同音に「世界一の大都市でありながら、都心が緑にあふれ、庭園の様だ。」と驚嘆したのも、納得できます。
by dehoudai
| 2010-06-30 16:40
| まちづくり
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