2010年 02月 25日
康炳基先生のこと |
康炳基先生は東大丹下研究室で、現在の首都高湾岸B・東京湾アクアラインなど、東京の近代都市計画事業の向うに透けて見える「東京計画60」立案に参加した後帰国、漢江両岸を利用した、ラダーフレーム状の都市交通計画などに参画された、斯界の泰斗である。その康先生が90年代に、都市計画からまちづくりに転じたというのは、小さな驚きだった。我が国の様に住民運動を、行政が取り込んで「地区計画」などの制度にはめ込もう、という国情ではなく、軍事政権下での身ごなしのまま、再開発に反対する住民を警官隊が圧殺し、死者まで出るというのが、韓国に於ける都市計画事業の現況であるからだ。
上掲の「暮しの文化と都市計画」という小論集は93年大田万博土産に買い求めたものなのだが、読めないのでそのままになっている。ちゃんと読めば都市計画からまちづくりへ、という先生の転身が読み取れたのかもしれない。
1973年にはお電話をすると、「朝鮮ホテルのロビーで。」という約束を頂いた。やがておいでになった康先生は、コーヒーを呑みながら私の風体を眺めて、「古山君はこういうところ苦手でしょ。美味いもん食べさせてあげよう。」と、コムタンの老舗に座り「これは朝帰りの時に食べるものだから、朝は早いんです。」というお話を伺いながら、ソウル内外の見所に付いて教えて頂いたのだった。当時は夜間外出禁止令の敷かれていた時代で、「通禁時間が過ぎるとコムタン屋が賑わう。」ということだった。
「建築雑誌」の記事で「へーっ。」だったのは、康先生の御出身が済州島だとのこと。1932年済州島生まれ、ということになると、金石範著「火山島」に出て来る李芳根氏の一回り程年下、という勘定になる。書屋で沈思黙考する李芳根とは違い、軍事政権の権力中枢で業績を重ねた先生も、もしかすると他人には聞こえない声で「眠らない南島」を口ずさんでいたかもしれないのだ。
小生は、と言うと昨年夏、忠武路駅の地下街にCD, DVD屋が有ったので、「眠らない南島みたいな歌の入ったCDは無いか。」と聞いてみたら、おやじの顔がさっと変わって、「ウチにゃアンタラに売る様なCDは置いてねーから、出てってくれ。」と言う様なことをえらい剣幕で言われた。ろうそくデモのシンパと見られた様だ。
離れ部屋
by dehoudai
| 2010-02-25 15:22
| まちづくり
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