2009年 07月 25日
新聞? |
中村與資平は東京駅、日銀などを設計した辰野金吾の一番弟子で、先生の名代で韓国中央銀行の現場を担当した後、京城に設計事務所を開設、銀行を始め数多くの国家的建築を設計したのです。しかし大正9年12月にアトリエが全焼、内地に引揚げて来ています。その後静銀本店、遠州銀行本店、豊橋公会堂などの設計をしますが、昭和10年には静岡県庁の設計に際して、当時主流だった「世界一の日本の城の意匠を、世界一の耐震技術で実現する」という愛知県庁・軍人会館・関東軍司令部(瀋陽)の様なデザインに抵抗し、現在の県庁本館を実現させています。こうした中村與資平の軌跡に、朝鮮での経験が関係しているのではないか、というのが私の興味の至る所でした。
結論から言えば「良く解らん。」と言うところですが、面白そうなことがいくつか有りました。ひとつは当時建設が始まった天道教中央大教堂を探ると、何か解るかもしれない、というものです。現場には手掛かりとなる様な話は伝えられていなかったのですが、当時の信者向け会報が有るそうで、これには何故中村が設計者として選ばれたかを、知る手掛かりが掲載されているかもしれません。誰か興味の有る方は調べてみて頂きたい。
もうひとつは「一体新聞というのは何じゃろか。」という疑問でした。大正9年12月京城府蓬莱町4丁目の火事に関する記事が、当時の新聞に載ってはいないかという訳で、大韓民国国立中央図書館へ向ったのでありますが、これまた空振りでした。当時の新聞には火事なんていう記事は無いのであります。
当時の日本語新聞には「京城日報」などがありますが、これは朝鮮総督府の機関紙の様なもの、ということで、1.2面が帝国及び総督府の施政方針、2.3面が外電などによる海外情勢、4面が相場欄となっています。1-3面は成る程なのですが、4面が相場欄というあたり、成る程植民地というのはそういうものか、と感じ入るのです。
日韓併合によってそれまで発行されていた朝鮮語の新聞は全滅してしまいます。そのなかで1920年には朝鮮日報と東亜日報、1931年には中央日報と、現在の韓国における3大紙が発刊されます。
1920年12月18日の朝鮮日報の紙面には「慶雲洞天道教堂工事」という記事があります。1920年12月の中村與資平に関連がありそうな記事は、これのみではないかと思われます。朝鮮語であり、しかも現在は使われない旧字体なので、何のことやら解りませんが、時期からすれば「着工した」という様なことではないかと思われます。しかし新聞記事からは、当時の世相が浮かび上がってきます。
「慶雲洞天道教堂工事」の左の記事は「間島地方の形勢」ですが、12月20日付け同紙ではこれが、「排日朝鮮人六道溝で大戦」「高橋中尉以下18名戦死、其他負傷者38名」となります。これ以外にも「聖徳街付近で朝鮮人強盗」「朝鮮人職業同盟会員朝鮮独立を画策」「咸南の人心不安、排日朝鮮人が日本人を射殺」など、韓国全土が一触即発であり、建築設計に没頭する、といった世情ではなかったことが紙面からうかがえます。
「蓬莱町で火災」などという記事はなく、「天道教徒と朝鮮独立」やら、あるいは前年来の裁判の記事といった、治安関係の事件で紙面はいっぱいなのです。前年の三一独立運動以来の世情を反映して、「流言飛語」を押さえる為に朝鮮語新聞が発刊された、という側面もあるのではないでしょうか。
元々新聞には社会正義を糺す為にあるのでしょうが、不正義を明らかにして、これを除くよりも、不正義から国民の眼を逸らす方が簡単なことは明らかです。7月24日の読売新聞には「通信・放送を総務省から分離、民主が政権公約に」という記事がありましたが、これが先年の小沢一郎と福田赳夫の党首会談を仕掛けたのは、読売の渡辺恒雄主筆だったという「さる人事件」の続きであることなど、殆どの国民が忘れています。
これが外国のこととなると、限られた情報から世情を掴みとることは、いっそう困難です。都市再開発に端を発した竜山参事も、米国産牛肉輸入再開反対に端を発したろうそくデモも、韓国国民に取ってどの程度のマグニチュ−ドを持っているのかは、朝鮮・東亜・中央の日本語ウェブページを見るだけでは、見当がつきません。IC産業に勤める江南の若者と、鐘路の縫製工場のオッサンとでは、日本に於けるよりも大きな認識の差があるのでしょうが、どの程度なのかが分かりません。
試しに忠武路駅の地下街にCD, DVD屋が有ったので、「眠らない南島みたいな歌の入ったCDは無いか。」と聞いてみたら、おやじの顔がさっと変わって、「ウチにゃアンタラに売る様なCDは置いてねーから、出てってくれ。」と言う様なことをえらい剣幕で言われたました。ろうそくデモのシンパと見られた様です。この分では1920年12月の「蓬莱町4丁目の火災」どころか、「花より男子」のサニーちゃん自殺事件の真相を知るのも、至難の業と言わざるを得ません。ノムヒョン氏の自殺は「ある時代への大きな終止符」ではなく、「大きな疑問符」になってきました。
そう考えてウェブをうろついてみて、発見したのが「ハンギョレ新聞ファン」の日本語ブログでした。ここ掘れワンワンで様々な記事を読んで行くと、「サニーちゃん自殺事件」から「何故京城は巨大九龍城なのか」まで、今までつかえていた疑問が次々と納得出来ます。金大中とノムヒョンを支えていたのは誰だったのか、二人が闘っていた相手は誰なのか。「朝中東」三紙の日本語ページを読んでも納得出来ないことが、次々明らかになります。韓国について疑問を感じたら、この新聞で「なるほど」と納得することが多いのではないでしょうか。それと同時に現在の日本における新聞・テレビの有り様に比べて、ハンギョレ新聞自体に驚嘆すら感じてしまいます。韓国について知ろうと思う方には是非「ハンギョレ新聞ファン」の日本語ブログをお進めします。
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by dehoudai
| 2009-07-25 18:49
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