2009年 06月 13日
やっぱりね |
それに引き換え日本人は中学高校6年間も「学校で習った」割には、さっぱり英語が上達しないのは何故だ。となるんだが、これも今の日本で「学校で習う」ことが、如何に馬鹿げているかに付いては、なかなか思い到らない様だ。なかには中学からでは遅すぎると、小学校から英語を教えたらどうだ、という論議もある様で、馬鹿の親方が実は文部省であることをさらけ出している。
日本・韓国・中国といった儒教圏は、同時に「科挙」の国々だ。科挙がその昔には大変優れた人材登用システムであったのと同時に、馬鹿の量産システムでもあったのだ。これらの国々では古典をそらんじて、「知っている」という人間が、知的能力に優れていると信じられている。その為入学試験でこれをを選別して、高等教育を施すことになっており、入試成績の順列がその人に一生付いて廻る。受験塾全盛なのも、これが結構簡単に近代技術を取入れて、産業化するのに適しているのだろう。
「知っているか」という入試成績の良否など、その人の知的能力の全てを明らかにするものではなく、暗記力を比べるだけのものなのであることに人々は気付かない。「百姓は米を50回植えて、上手くいくかどうかで一生を終わる」という時代には、考える力よりも、過去の天候をどれだけ記憶しているかが重要だったろう。欧米先進国の文献を独り占めして、お手本そのままに「オレの言うことを聞け。」で低賃金労働を輸出した文明開化の時代にも、考える力ではなく暗記力は有効な手だてだったかもしれない。しかしお手本の無くなってしまった現在の日本で、馬鹿の量産システムと化した教育の迷走には、根の深いものがありそうだ。
by dehoudai
| 2009-06-13 11:54
| まちづくり
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