2008年 12月 31日
擬和風 |
建築史では「擬洋風建築」という言葉がある。御一新により、向後すべからく洋風にすべしというわけで建物も造られたのだが、技術者が居る訳ではなく、大工の棟梁をよんで、西洋伝来の絵図など見せ、「こんな建物を作ってくれんか。」とやったのだ。全国の官公署、学生発布の後には学校がこうしたデークの洋風建築で建てられた。県内には見付学校、松崎学校などが残っている。
(左図は「西洋新書」瓜生政和/明治5)
関東大震災の後には逆の動きが始まった。「日本の城郭意匠は世界一デアル。日本の耐震設計も世界一デアル。故に日本の城郭意匠を日本の耐震技術で作れば世界一の建築が出来る。」と言う単純明快な理論で軍人会館、大阪城、愛知県庁など数多の建物が造られた。関東軍司令部など「偽満州国」の「擬和風建築」と見る向きもあろう。耐震建築は防空建築でもあった。戦後も昭和30年代になると上掲の浜松城やら会津若松城など数多くの城郭が耐震耐火技術で再建され、同じ技術で寺院・社殿なども作られて行った。
それから半世紀、おかしなことに再び逆の現象が起きている。明治時代の大工の棟梁が伝統木造技術で洋風建築を作ったのと逆に、予算を押さえるためには「鉄骨+ALCでしょう。」というわけで、西洋伝来の建築技術で和風の建物が造られる様になったのだ。明治時代にホテルでも学校でも作ってしまった伝統木造技術は既に消えてしまっている。
伝統木造技術が消えてゆくもうひとつ大きな要因は、敷地が和風ではないのだ。寺院は明治の廃仏毀釈で、神社は終戦による国家神道の否定で国家の保護を離れ、境内地は切り取り勝手、ということになってしまった。それより何より人心が信心を離れ「土地で一儲け」という「擬洋風」の発想がこの国を覆って久しい。
かくして鎮守の森は縮み、寺島にも民家が建ち並び、2階建3階建てとせざるを得ない。市井繁盛の結果、辺りは準防火地域に指定され、敷地境界線からの法定距離が足りないために耐火建築とせざるを得ない。140年前にパリの都を見て「市街割に合して廣からずと云へども、六層七層の家居二階に住むものと、三階住むものと、四階五階に住むものと、六階七階に、何れもその所帯違ひ、下が山城屋ならバ、中が武藏屋、上が津の国屋といふ様な訳ゆゑ、都の上へ都を重ね乗せたるが如し。(西洋新書)」と魂消ていた日本人と、我々とは同じではないのだ。
by dehoudai
| 2008-12-31 01:33
| まちづくり
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