2008年 12月 25日
鶴ヶ城 |
浜松城は出世城というから立派な城かというと、金がない時に作った城だから、たいしたことはない。天下取りのためにここで我慢した、という程のものだ。近くには長男信康の母、築山の墓もあり、信康が自害した二俣城も遠くはない。
母は生前「菅原伝授手習鑑寺子屋の段」が大嫌いであった。忠孝のためなら我が子の首を差し出す、というのが非道で悪趣味だ、というのだ。しかしこれが江戸時代に大ヒットしたのには別の見方もあったろう。「忠義のためなら子供の首まで出すなんざあ、畜生にも劣る。おらあ御武家に生れんで良かった。」というわけだ。
会津でも喜多方の在所まで行けば、戊辰の年に若松で城が落ちたのも、どこぞの庄屋へ侍が手傷を負ってかくまわれ「出るに出られず長くかくまわれていたそうだ、オサムライサンも大変だ。」という程度なのかもしれない。庶民にとっては、むしろ乗り込んで来た、進駐軍総司令官三島通庸による「三面道路開鑿」でひどい目にあった、という記憶の方が消えずに居る様だ。
母は御一新で東京を目指してはりきって出て来た士族の娘、父は東海道の街道筋で世間を眺め、のんびり暮らしていた百姓の倅なので、落差が激しい。そんな二人が結ばれたのが満州国での戦時結婚なのだから、こちらも相当な異常事態だったとも言える。
鶴ヶ城
美しい会津
喜多方ラーメン
by dehoudai
| 2008-12-25 13:42
| まちづくり
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